人気ブログランキング | 話題のタグを見る

人生の価値観を求めて

昨日新宿にあるメデエーター(人間接着業)というユニークな肩書きを持つ青年会議所の先輩青木くに光氏の事務所に突然訪問した。そこには4人の30前後の若者がいて青木氏と熱く人生を語っていた。

青木氏は突然の訪問にも関わらず、私にもこの若者達との話しの輪に加われという。ひととうり彼等の
自己紹介、人となり、主張を聞き新鮮な驚きを感じた。

皆しっかりとした人生の価値観を持っており、障害者の自立を支援する団体を支援している若者や、人間の持つ長所(凸)短所(凹)を埋めあってワンピースな平和を作る夢を持っているものや、小さな優しさを通じて平和な社会の輪を広げ、ゆくゆくは皆でノーベル賞をとるとか、

荒唐無稽というかとてつもない夢を真顔で熱く述べる若者に久しぶりに出会った。2、3日前どうしたら人生の成功者となり豊かな生活が出来るかという若者も多く交じった会合に参加したばかりだったので余計新鮮な感じを受けた、というより異次元の世界に混じり込んだ感覚であった。

つい最近まではアメリカ型の金融重視資本主義が台頭してきて、豊かな社会を目指し、小学生にまで株式投資を勧める拝金主義の世の中にあって、そんな風潮に背を向けるような新しい価値観を求めて活動している若者が大勢いるという(なんと8月にはこんな同じ志を持つ若者100人程が集まって青木さんの講演を聞くという)

我々の世代でも金のあるものは先頭に立ってボランテア活動などしようとしないし、ボランテイア活動に熱心な者は金に縁遠いし、今のこのご時世はNPO活動も経済と活動の整合性が難しい局面に立たされている。

しかし彼等は4人とも自分の城や会社をもっていて自主度独立を果たし、生活基盤を確立している。偉いものである。自分のこの年代の時は金儲けに忙しく、社会性のある事やボランテイア的なことなどに目を向ける余裕などなかったので余計そう感じるのかも知れない。

# by kenjyuojisan | 2009-05-14 07:44  

テレ酒・テレパゴ・居間専亭主

今度の新刊本でも書いたが退職者のリタイア後の日常の過ごし方は①テレ酒=テレビと酒で日がな一日過ごす②テレパゴ=テレビとパソコンとゴルフしかやる事がない③居間専亭主=朝から夜まで居間を占領し奥さんからひんしゅくを買う。以上のこの3類型がリタイア後のあまり褒められない過ごし方の例である。この中でも最も嫌われるのが③の居間専亭主で昼間から奥さんにつきまとい「昼飯は未だか」と催促する輩である。

30年も40年も家族を養うため実直に会社務めをしてきたのだから、リタイア後はのんびりと昼飯ぐらい毎日食わしてくれてもよいではないかと誰でも思うが、女房側から言わせるとそうはいかない、「亭主元気で留守がよい」の神話は今も生きていてなるべく昼間はどこかに行って欲しいと思われている。

私の知り合いのM氏など退職後奥さんのそのような空気を察し、現役の時と同じく都内までの定期券を購入(埼玉在住)毎日あちこちの勉強会にこまめに出没し、私から「べん中、ベン中」(勉強会中毒)と揶揄されている。

彼はこう呼ぶと嫌がるが、このスタイルをもう15年あまりも続けていて、今ではこれが彼の家庭にとっては一番平和な方策になっている。まさに亭主元気で留守がいいの、典型みたいなものである。

いずれにしてもこれは彼が毎日外に出るのが好きなのと、勉強会が性にあっていたから続いている訳で奥さんから追い立てられてやむなく続行しているわけではない。彼は変わっていていろんな会にマメに出るものだから当然役員の候補として名前が挙がるがなかなか引き受けない。どこにも偏することなく均等に出席したいからである。

皆さん、先日ある記事を見ていると熟年の離婚の原因の一つとして昼食を週3回以上作らせるというのがありましたが、皆さんの家庭は大丈夫ですか・・・・・・。

# by kenjyuojisan | 2009-05-13 06:52  

初老=40才の異称

初老という言葉を広辞苑で引くと=「老境に入りかけた年頃」、あるいは驚くべき事に「40才の異称」=となっている。この辞書の発行は1998年となっているのでそう遠い昔の話しではない。40才と言えば私の長女の年齢である。

先日麻生総理が「私は42才で結婚して2人の子供を設けている」と語ったが初老で結婚してから2人の子供を産んだわけだから大した元気である。おそらくこれは戦後間もなくの50、60の平均寿命の時の記述がそのまま残った産物であると思われる。

私の周りでも結婚はおろか子供もいない未婚の初老がいっぱいいる。そういう意味では先日の麻生総理の発言は結婚前の初老達に勇気を与えた。そうか初老で結婚しても2人も子供を持てるのかと希望を抱かせるに充分である。


今年70才の私は、いまだに家族から老人扱いなどされた事もなく、元気がよすぎて時々発するその大音声にあきれられている。私の感覚では80才ぐらいが初老ではないかと考えている。あくまでこれは私見なので、80才というとますます健康格差が取りざたされている現在、異論が噴出すると思う。

では一体何才ぐらいが現代では初老と呼ばれて相応しいのか?あるいはあくまで個人個々の問題なのか、皆さんも一緒に考えてみようではありませんか・・・・・

# by kenjyuojisan | 2009-05-12 09:28  

貧も悪い事ばかりではない

昨年始め5女の婿が事故死した。早いものでもうとっくに1周忌が過ぎた。娘はもとより後に残された家族、6才を頭に3人の孫(全て女子)が不憫でならなかった。

当初は今後我々両親が娘孫を引き取り生活支援をするしかないと思い定めていたが、娘は気丈にもこの申し出を拒否、親娘4人で主人と暮らした思い出の地で生きて行きたいと言う。

我等には子供8人いるが、皆雑草の如くたくましく育っていて、それぞれ自立して生きて行くのが当然の如く思われてきた。しかし今回の件はレアケースで両親に多少依存しても兄姉達は納得すると思っていたが、本人が納得しない。

しかも母子家庭で生活が大変なのに無理して墓地を購入するという。私は生活優先で墓地や墓石は後の事でもいいのではないかと購入に際してのローンの保証人の話しも断った。それで娘も断念するかと思っていたが先日強い決意で何百万もする墓を自力で建立してしまった。

その後も生活に窮し、いつ生活支援の電話があるかと待ち構えているが一向にその兆しもないしお金のむしんもない。娘はその後近くに職を見つけ、毎日3人の娘を学校や保育園に送り出し大変な日々を送っているが元気に身体も壊さず頑張っている。

たまに娘も孫3人を引き連れ実家に遊びにくるが、孫はいつも明るい。いつも来る早々「じーじいっ」と叫び飛びついてくる。動物でもしっぽを振る犬は可愛いというが、普段から気に懸け不憫に思っている孫なだけに可愛いくない訳がない。

昨日も久しぶりなので近くのマックで孫達に好きなものを注文しなさいとご馳走したがその喜び様は尋常でなく、さぞや普段はつつましい生活をしているのだなと思わせるようなオーバーな喜びを爆発させた。今までも他の孫にも(孫17人いるので)同様な振る舞いをしてもこんなに喜ばれる事はなかった。

6人の娘達も今になってみれば人それぞれで、嫁ぎ先の事情によって生活格差が生じ、それなりに貧富の差がついている。何千坪もの土地持ちの旦那を持つものもいれば、アメリカで成功した旦那を持つ娘もいる。

しかしその幸せ度はどんなものだろうか、物質的に豊かだから幸せとは限らない。この5女達一家も毎日貧ではあるが孫達は順調に明るく素直に育っている。小さな当たり前の事を大きく喜べる貧も又良きかなである。我等夫婦はこの家族がこのまま大過なく過ごしてほしいと祈るや切である。

# by kenjyuojisan | 2009-05-11 08:01  

今死を告知されたら何をするか

人間元気な時は死を忘れいつまでも生きられるような錯覚の中で生きている。しかしよく考えれば人間は(他の動物も全て)産まれた時から死に向かってカウントダウンが始まっていると言える。

朝日先生は昨年9月、がんに見舞われ余命3ヶ月の命と宣告された。爾来自然に任した生活はしているものの毎日が命との闘いである事には間違いがない。

今は5月、最後通告の命からすれば6ヶ月を延命している事になる。

通告する方も医学者、される方もれっきとした医学者である。いい加減な見た立ての筈がない。きちっとしたエビデンスによって残存生命が計られたに違いない。

しかし現実には先生は今も元気で闘病生活に明け暮れていて講演活動までこなしている。先月末私自身高松まで出向き御見舞いし、元気な姿を目にして来たのでそれな間違いない。

生命の神秘は不思議で医学で解明できないものが数多くある。あのとき先生も近代医学の限界を悟っていて、医術や薬の効能のみに頼らず自身の心と身体の関連性について熱く語っていた。

先生は死の準備をするものの生きる希望も捨てておらず、今ではもしかすると自分はこのまま生き延びるのではないかと思っている節もある。現在今の心境も含めて定期的にその闘病記を書き送ってくれているのでその時その時の状況が
手に取るようにわかる。

この日々の記録は専門家にとっても貴重なものとなるが、がんを患っている一般患者にとっても大きな励みになるに違いない。

私の残存生命は一覧表(生命保険会社が出している表)によると後15年だから言い換えればその期間の余命宣告をされたのと同じ事になる。しかし現実には切迫感もなく死に対する実感もない。

もし突き詰めて死を切実に考えるとすると人生の優先権は変わってくると思う。今は金儲けしてもっともっと人生を豊かに、と、物質的な成功を願って生きているが、死を実感すると途端に人生の優先順位は精神的なものに変わってくると思う。

どちらかというと今は持っている幸せ(健康に恵まれている事や家族の安寧)に気付かず、持たざる幸せ(富の追求や人生の成功)に思いを馳せ、日々を費やしている事に疑問は持つがそれ以上深くは考えようとはしない。

ここらで真剣に限りある命を考え、残りの人生で一番何が大切かもう一度考えてみたい。

# by kenjyuojisan | 2009-05-10 08:38